2013/04/25

110年生きた人間が最後に考えること


物欲とか名誉欲とか、欲というのはいろいろありますが、いつになったらそんな欲から解放されるのだろう、と、思うことはありませんか?

うちのおばあちゃんは110歳です。
私が物心ついたころには既に80歳でした。80歳のばあちゃんは学校から帰るといつも再放送のルパン三世を見ていて「ばあちゃんはルパンみたいな男が大好きなんだよ」と言ってました。
ビートルズよりもサイモン&ガーファンクルが好きだけど、A day in the lileは面白いから嫌いじゃないよ。とも言ってました。
そんなばあちゃんももう110歳です。

ばあちゃんは、90歳くらいのとき、食べ物にこだわり始めました。
おいしいジュースを買ってきてほしい。とか、お酒が飲みたい。とか、とにかくあれ食べたい。これ食べたい的に、食べ物のことをやたらリクエストするようになりました。

しかし、100歳近くなったころ、その時期は終わりました。ばあちゃんは次に、物にこだわるようになったのです。
私の財布はどこなのさとか、最近財布からお金が減ってるけど、どっかに隠してるんじゃないの?とか、口を開けばとにかく財布とお金の話ばっかりしていた時期があります。その頃、宝飾品にこだわったこともあります。
私の指輪がどこそこにあった気がするけど、誰か盗んだんじゃないかとか、言ってました。

105歳くらいの頃、そのクレームは終わりました。
ばあちゃんは、食べ物のことも忘れ、宝飾品のことも忘れました。
いっとき、私のポケットからお札がなくなるといってきかないので、ティッシュをポケットに詰めて、「ほら、あるよ」といってなだめたこともあるくらいだったのに、急にどうでもよくなってしまいました。

次にばあちゃんが気にしだしたのは、じいちゃんのことです。

じいちゃんには、じつはわかい女がいるらしい。
じいちゃんは、わたしに着物を売れという。わたしは、自分の一番気に入りの、着物をこれから売りに行く。だがそれは恐らく、そのわかい女と生活をするために、必要なことなのではないか。じいちゃんはその女と、そこで暮らしているんだ(なんか奥のほうを指して)。
と、よく言ってました。
じいちゃんは、わたしのことを、裏切っている。
とか、
男なんかそういうもんだ。
みたいなことを、100を過ぎた老女が。とてつもなく大きな声で言うのです。

50年以上前に死んだ男のことを。

じいちゃんは50代で他界しているので、ばあちゃんはもうじいちゃんに、50年以上会ってません。
それなのに、100歳も過ぎて、ばあちゃんは、じいちゃんという一度愛した男のことを思い出してはあらぶっている。
これにはまいりました。

孫の私はこう思っていたのです。
おっぱいや顔がしわしわになり、性別もわからなくなってしまえば人間なんか、欲という欲から勝手に解放されるに違いない。何かを「欲しい」とか「こうあってもらいたい」などという世界に対するリクエストなんかなくなって、すごい自由に、ラクに、生きて死ねるはずだと思っていたんです。
でもベストプラクティスであるばあちゃんはちがいました。
ばあちゃんは今でもじいちゃんが、自分を裏切ったのかどうだか知りたがっている。
つまり、自分という存在意義を、食い物とか金とか宝石みたいな物欲に投射せず、愛した他者に最後丸投げして(相手は死んでいるのにもかかわらず)いまだその意義を確認しようとあがいている。

結局のところ、どんだけハードとして衰えても、ソフトはそれをあきらめない。
ばあちゃんはじいちゃんをあきらめない。
いや、じいちゃんをあきらめないのがばあちゃんである。ということになってる。
じいちゃんがばあちゃんであり、ばあちゃんがじいちゃんであるのかもしれない。
そんなのしらんけど、ハードが衰えれば理性が衰え、そして最終的にはだれもが自分が全身全霊精神をまるなげした相手を思い起こすのであって、最終的には「あの人大好きだったなあ」というどうしようもないきもちがわーって来て、そのことばっかり死ぬまで考えるようになるのかもしれん。もっといえば人間、長生きすればするほどむしろ愛だの恋だのに支配されて死ぬのかもしれん。ええ?ほんと?!とか思いました。
つまり、わたしの想像の中の「老い=無」というのは間違いで、老いるほど愛着に正直になるもんなのかもしれんと思いました。でもそんなのをいまは面倒だとおもいます。でもきっとその面倒なのが結局は人間の本質であるようなきもします。

わたしはじいちゃんに会ったことがありませんが、日清、日露、第一次、第二次(戦争)、といろいろパスしてもなお心にじいちゃんを抱くばあちゃんが死んでしまうと、ふたりいっぺんになくなってしまうような気がして、今から涙がでます。でも、まだ、やや元気ですけどね。ばあちゃん。